大人数授業を魅力あるものにするために
学生の大群との格闘

(「愛知大学FDニュース第6号」10頁,2003.3)

 

<前注>

 下の文章は、愛知大学FD委員会から依頼され、学内誌 『FDニュース』 のリレー連載「大人数授業を魅力あるものにするために」の記事として書いたものである。依頼の理由は、大人数授業の割に授業評価アンケートの結果がよいということらしいが、本文で書いたように、ひとさまに披露できるような必殺技をもっているわけではないので、いったい何を書けばよいか、正直、困った。
 最近、大学では、FD(Faculty Development)と呼ばれる教育改善のための活動が盛んになりつつある。愛知大学でも、ちょうどわたしが着任した2001年度からFD活動が本格化し、授業評価アンケートが実施されたり、講演会が開かれたりしている。FDニュースの発行も、その一環のようである。
 某受験関連企業の調査によると、愛知大学の学生の授業満足度は近隣の某大学のそれよりも低いそうだから、こうした活動が盛んになるのは、学生にとっても愛知大学にとってもよいことであろう。個々の教員にとってよいことかどうかは、大学教育に対する本人の意識しだいであろうが、わたし自身は、教員がFD活動に積極的にかかわり、学生のために授業改善の努力をすることは、今日の大衆化した大学の教員に求められる最低限の社会的責任ではないかと考えている。(2003.3)

 

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 わたしは愛大に着任して2年目の若輩であるが、原稿の依頼は断るなと厳しくしつけられてきたために、ここに書くことになった。誰も読まない紀要に書くより緊張している。
 この2年間の担当科目は、専門科目の刑法各論であった。以下、名古屋校舎(昼間部)のそれを前提に話をすすめる。
 今年度の登録者数は450人前後、出席者数はアンケートの回答人数から推測して250から300人程度である。教室は500人以上収容可能な002教室であるが、びっしりつめて着席するわけではないので、教室は毎回ほぼ一杯の状態である。
 個人的には大人数のほうが燃えるのであるが、学生はたまったものではない。そこで、さまざまな工夫が必要になってくるのであろうが、とりあえず、この2年間は、わたしの理想とする学問的水準を保ちつつ、伝統的な講義スタイルでどこまでいけるか試してみることにした。ゆえに、内容はごくふつうの刑法解釈学であり、授業の進め方も、レジュメを配布し、わたしが一方的にしゃべりまくり、たまに発問して挙手させるといった平凡なものである。出席はとらなかったし、小テストもしなかった。TAもいっさい活用していない。
 ただし、つぎのことには注意した。一体性の確保である。大人数授業の最大のポイントは一体性の確保にあると思う。一体性があれば、大人数授業の最大の悩みである私語もなくなるはずである。そのために、成功しているかどうか、良いか悪いかは別として、たとえば以下のような工夫をした。
 時系列にそって思いつくまま列挙すると、教室に入ったら、まず、明るく元気な声で学生にあいさつをし、つづけて、前回の内容を確認するなどして、いま何を学習中かを全体の流れとの関連で簡単に確認する。場合によっては、ここで、時事的なニュースを紹介する。つぎに、その日のテーマを明らかにし、レジュメを配布する。配布は、ブロックごとに行う。そうすると、学生の様子を間近にみながら自然に教室を巡回することができる。レジュメがゆきわたったことを確認して、いよいよ授業開始。ざわついているときには、教室全体に目をやり、さあやるぞー、とか、静かにしなさい、とか、コラそこ、などと硬軟おりまぜて注意する。落ち着いたところで、レジュメをもとに授業を進める。説明の際には、判例の事案その他の具体例をあげて、学生がイメージしやすいようにする(具体例はわたしの創作の場合が多い。いきなり判例だと難しいからである)。また、とくに重要なところや難しいところは、くどくならない程度にくり返し説明する。板書としては、キーワードないしキーセンテンス、必要に応じて図や絵を、大きく、かつ簡潔に書く。長い文章は書かない(あとで参考図書を読めばよい)。このとき、図や絵の書き方をちょっと工夫すれば、それだけで学生の視線を釘づけにできる(かもしれない。なお、絵は下手くそなほうが好まれる)。基本事項をひととおり確認したところで、適宜、発問する(レジュメにも「問」として書いておく)。その場で全学生に考えてもらい、挙手させる。これを受けて一応の解答を示し、場合によっては、わたしの感想と意見をつける。以上のことをくり返して、その日のテーマを終える。
 授業全体を通じての技術的なこと、精神論的なことを書けば、なんといっても、聞き取りやすいハキハキした声で、丁寧に、かつ学生の方を向いてしゃべることが大前提であると思う。また、開講時に、授業のスケジュールと運営方針をきちんと説明し、この授業の目標はどこにあり、そのためにここで何をするのかということの共通認識をつくっておくことも必要であろう。たとえば、わたしは出席をいっさいとらず、成績評価も期末試験のみで行っている。これは、大学は自分で勉強するところであって、授業はそのための手段のひとつにすぎないから、出たくなければ出なくてよい、各自が自由なやり方で勉強すればよいと考えているからである。また、この授業の目標のひとつは、刑法解釈学を素材として知的よろこびを体験し、法的ないし論理的な思考力をきたえ、さらには社会の出来事に対する批判的なものの見方を養うことにあると考えている。このようなことも、開講時に、学生にはっきりと伝えておくのである。
 以上、わたしの経験を思いつくまま書き連ねてきたが、わたし自身、まだまだ発展途上にあり、不十分なところは山ほどある。他の先生方(愛大の先生にかぎられない)の授業を参考にして、よりよいものをめざしていきたい。わたしの次年度の担当科目は刑法総論である。刑法総論は各論以上に抽象的で難解であるが、これまでの試みをさらに発展させ、よりわかりやすく楽しい授業を心がけるとともに、あたらしい試みとして、自己採点型の小テストを行うとか、レジュメの最後に練習問題をつけて宿題にするといったことを実施しようと考えている。

(2003年1月末日脱稿)